オートレース場ヒストリー

2025年11月07日

 
 
 今回は前回に続いて、オートレース場の歴史に関する後編を述べていきたい。
 
 『大井オートレース場』

  
 1951年10月に東京都議会でオートレース場建設促進に関する請願が採択され、12月の都議会本会議で大井競馬場にオートレース場を併設することが決まった。走路は周長500メートルのアスファルト舗装で、全国で初の舗装走路と都心にあるオートレース場ということもあって、関係者の大きな期待を寄せられての開場となった。1954年11月28日にオープンしたが、思うような売り上げ、入場者数にはならなかった様子。原因の一つとして、選手が舗装走路に不慣れのため、レースに迫力を欠き興味が薄れたこともあったようだ。開場してから15年を経過した1969年1月、当時の東京都知事が都営ギャンブルの廃止声明を出し、廃止が決定された。そして、1973年3月22日の開催をもって最後を迎えた。しかし、全国初の舗装走路で開催されたことは、その後の全国舗装がスムーズに実現できるようになった要因として大きな功績を残した。
 
 『浜松オートレース場』

  
 浜松市は1952年ごろから競馬場の設置を推進していたが、1954年に正式に不許可になった。ちょうどその頃、競争法の改正があって、レース場の所在市町村に開催権が与えられることになったため、浜松市もオートレースの開催に乗り気になり、オートレースの実施が浜松市議会で決議された。そして、1956年5月1日にオープンした。ちょうどその時に「浜松まつり」が行われていた影響もあってか、来場者数、売り上げともに上々の滑り出しをみせた。
 
 『飯塚オートレース場』

  
 飯塚市は浜松市と同様に、オートレースの施行権が市町村に与えられると開催意向を表明し、1955年に飯塚市議会でオートレース場の建設が議決された。建設地は多少もめたが、今の場所に決定し、1957年2月22日に九州で初のオートレース場として飯塚レース場が誕生した。開場当日は天候にも恵まれ、近隣から多くのファンが集まった。
 
 『山陽オートレース場』
 
 前編に登場した『柳井オートレース場』が1957年に休止になったため、移転先を探していたところ、厚狭郡山陽町が名乗りを挙げ、1958年9月に山陽町議会でオートレース場の設置が決まった。しかしその後、いろいろと紆余曲折があり、実際に誕生したのは1965年までかかってしまった。その4月10日に初開催を迎え、入場者数、売り上げともに大成功で、翌日の日曜日には一万人以上のファンでスタンドが埋まったという。
 
 『伊勢崎オートレース場』
 
 大井オートレース場が1973年に廃止されると、その前後から群馬県榛名郡榛名町と伊勢崎市がオートレース誘致に動き出したが、最終的には伊勢崎市に誘致されることになった。1976年10月6日に伊勢崎オートレース場が完成し、その3日後に初開催となった。初日は天候に恵まれなかったが、入場者数、売り上げともにまずまずのスタートを切り、翌日の日曜日は天候にも恵まれ多くのファンで賑わい大成功を納めた。
 
 船橋最後の日.JPG
 
 前編では触れなかったが、『船橋オートレース場』は2016年3月に廃止になっており、現在は全国で5つのオートレース場が存続している。
 
 文/高橋


 

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