【私的名馬録】交流初期の佐賀を代表する キングオブザロード
2024年10月28日
6馬身差の圧勝だった97年サラブレッドグランプリ
日本競馬界の歴史に名を刻んだ名馬・競馬ファンの記憶に残る名馬の活躍を競馬ライターたちが振り返る私的名馬録。
今回のテーマは─
佐賀記念JpnIIIは1995年の地方中央交流化後はJRA24勝、地方4勝とJRA所属馬が地方を圧倒。
その地方4勝のうち、交流化2年目の96年(この年まで『開設記念』の名称で施行)はリンデンニシキが1着、その3着にはキングオブザロードと、当時の佐賀のサラブレッド2強として鎬を削っていた両馬がJRAと互角の戦いを見せ、地元ファンを大いに沸かせたものでした。
両馬がデビューしたのは94年で、翌95年はいわゆる"交流元年"。
佐賀競馬でも開設記念が交流化されましたが(初回勝ち馬はアドマイヤボサツ)、3歳時(現表記)の交流戦出走は、それ以前から地方馬に開放されていた小倉日経オープンにキングオブザロードが挑戦(9着)したのみでした。
この年の佐賀3歳二冠(栄城賞、佐賀菊花賞)はキングオブザロードとリンデンニシキが1、2着を分け合い、4歳になってリンデンニシキが名古屋大賞典(9着)、キングオブザロードがプロキオンステークスGIII(13着)とそれぞれ交流重賞に挑戦。
遠征では結果を残せませんでしたが、地元では1着、3着と上々の結果を残し、佐賀の馬も交流で十分戦えるとの期待を抱いたものでした。
キングオブザロードとリンデンニシキの直接対決は7度あり、栄城賞まではキングオブザロードが3度先着したあと、佐賀菊花賞、開設記念ではリンデンニシキが先着。
さらに96年のサラブレッドグランプリでは序盤から両馬のマッチレースとなり、激しい競り合いがたたってキングオブザロードは早めに後退し"両雄並び立たず"の7着敗退となったのが印象的でした。
97年の佐賀記念GIII(この年に改称されGIII格付)ではキングオブザロードがグリーンサンダーの4着を確保し、リンデンニシキは同8着。
これが最後の対戦となり、キングオブザロードが1つ勝ち越してはいるものの、どちらが強かったか?と問われると、やはり甲乙つけがたく答えは出ないところです。
当時の九州の地方競馬は佐賀、荒尾、中津の3場が存在し、いずれも週末主体の開催で日程が競合していましたが、地方競馬の売上低迷期に入り九州3場の連携を模索。
3場の日程を調整し、重賞の九州交流化で年間のレース体系を整備する『九州競馬』の枠組みが00年6月よりスタートし、8月に荒尾競馬場で行われた九州王冠には8歳になったキングオブザロードが出走。
5歳12月の佐賀場外オープン記念天山賞以降は重賞勝ちがありませんでしたが、直前にA級特別を勝利するなど、まだまだ存在感は健在。
2番人気に推されて逃げを打ちましたが、アイディアルクインの4着に敗退。
レース後には骨折が判明。『九州競馬』でも活躍を見たかったという想いはありましたが、このレースを最後に引退となりました。
キングオブザロードの重賞6勝はすべて佐賀限定戦でしたが、佐賀記念(開設記念)は96年から4年連続出走と、95年の交流元年から00年の『九州競馬』までの佐賀競馬を第一線で引っ張ってきた存在でした。
文/上妻輝行
OddsParkClub vol.69より転載