【私的名馬録】第1回で地元馬に栄冠「リバーセキトバ」
2024年04月19日
第1回黒船賞を9番人気で制したリバーセキトバ
日本競馬界の歴史に名を刻んだ名馬・競馬ファンの記憶に残る名馬の活躍を競馬ライターたちが振り返る私的名馬録。
今回のテーマはー
黒船賞。高知が誇る唯一の統一グレード競走だが、その創設が決まったのは第1回競走が行われる約1年前の1997年だった。その名の通り、中央や他地区との交流競走が皆無で、まさに鎖国状態の高知に、開国を迫るレースだった。
当時の高知の関係者の間には、ペリーの来航にパニックになる江戸幕府や民衆のように、強い中央馬との直接対決に「勝ち負け以前に勝負になるんか?」と重いムードが漂っていた。
その一方、高知には外圧に対する反骨心や、古い慣習にとらわれない改革精神が育まれる風土もあった。何と言っても、外国に負けない新しい日本をつくろうと時代を駆け抜けた坂本龍馬を生んだ地だ。
「中央が強いのは分かっちゅう。けんど、走る前から、あきらめるのはどうかいね」と話す関係者もいた。この関係者こそ第1回黒船賞をリバーセキトバで制する当時53歳の須内久子厩務員だった。
高知の関係者の間で、須内の名を知らぬ者はいない。毎年のように担当馬で重賞を勝つ男まさりの敏腕厩務員で、愛称は"おばちゃん"。それは世間一般では中年女性の総称だが、高知競馬に限れば須内のことを指すほど、その存在は際だっていた。
黒船賞の開催が決まると、馬主だった兄の岡林鐵山とともに中央馬に立ち向かえる売り馬を探し始めた。その時につけた条件は後ろからの差し馬。その理由は「先行馬で挑戦しても中央馬のスピードには勝てん。速い中央馬が何頭も来たら(流れが)はようなるき、狙いはそこを差せる馬」
その後、南関東オープンのリバーセキトバが売りに出ていることが耳に入る。牡7歳(97年当時)、南関東の前は中央オープンで、馬主は歌手の和田アキ子だった(馬主登録名は本名の飯塚現子)。成績を見ると大敗もあるが、マイル以下の距離では堅実で、黒船賞の1400メートルはベスト。何より須内が求めていた差し馬だった。
東京の料亭での和田アキ子の代理人との面談にも須内は兄とともに立ち会った。当初は隔たりのあった価格も口八丁手八丁で典型的な"土佐のはちきん"の本領を発揮。須内の粘りで移籍は合意に到った。
高知では鞍上にトップジョッキーだった北野真弘を迎え、黒船賞まで12戦5勝、2着4回も、重賞勝ちはなかった。黒船賞本番でも12頭中9番人気。苦戦が予想された。
だが、レースは須内の見立て通り、1コーナーでは7頭が先行争いに殺到する激しい流れ。これを後方10番手から追走したリバーセキトバが向正面から前へ進出すると、直線は外から一気に中央勢を飲み込んだ。
ゴール50メートル手前で鞍上の北野がガッツポーズを見せる快勝劇だった。すべてが須内の思惑通りだった。
リバーセキトバ以降、黒船賞で地元馬の勝利はない。しかし、また龍馬のように、リバーセキトバのように、そして"おばちゃん"こと須内久子のように、新時代を切り開く優駿が高知に出現することを待っている。(文中敬称略)
文/松浦 渉
OddsParkClub vol.64より転載