小牧太騎手の兵庫復帰宣言にドキドキ
2024年04月27日
NARグランプリ2023で最優秀勝利回数調教師賞2度目の受賞となった高知の田中守調教師と、小牧太騎手が地方競馬教養センター時代の同期というのは知っていた。1985年(昭和60年)にそれぞれ高知、園田で騎手デビュー。田中守さんは2002年に調教師となり、小牧騎手は04年にJRAに移籍。まさか令和の時代になってこの2人のコンビが実現するとは、うれしい驚きだった。
3月28日に園田競馬場で行われた、ネクストスター西日本。田中調教師が管理するリケアサブルは、前走兵庫ユースカップ(姫路)を勝っていたこともあって1番人気。小牧騎手を鞍上に3番手から4コーナーで前2頭をとらえると、直線抜け出しての完勝。三宅きみひとアナウンサーの実況も盛り上がったが、現地のファンはおそらくもっと盛り上がったことだろう。
小牧太騎手でネクストスター西日本を制したリケアサブル。馬の左2人目が田中守調教師(写真:兵庫県競馬組合)
小牧騎手が園田で重賞を勝ったのは、じつに20年ぶりとのこと。この日はネクストスター西日本も含めて6レースに騎乗し、2勝、3着2回という活躍だった。
小牧騎手は、4月11日も園田競馬場で条件交流競走ほかに騎乗。そしてこの日に行われた記者会見で、兵庫に戻るべく地方競馬の騎手試験を受けるということが明かされた。
小牧騎手は1985年10月にデビュー。8年目の1992年には181勝を挙げ、それまで兵庫では不動のリーディングだった田中道夫騎手(現調教師)を抑えて初めて兵庫リーディングとなった。
交流元年と言われた1995年、中央・地方の交流が盛んになったが、しかし当時の園田・姫路競馬はアラブ系のレースしか行われておらず、馬とともに中央のレースに挑戦する機会はなかった。
とはいえ中央で騎乗する機会がまったくなかったわけではない。初めてJRAで騎乗したのは1993年3月6・7日。1992年から96年まで中山競馬場で行われた、若手騎手による国際騎手招待競走、ヤングジョッキーズワールドチャンピオンシップの第2回に地方代表として、川崎の河津裕昭騎手(現調教師)とともに出場。勝利こそならなかったものの、4着、12着、3着、4着という成績で総合4位となった。
余談になるがこの年、日本のファンの度肝を抜いたのがランフランコ・デットーリ騎手。全4戦のうち3勝を挙げ、第1回に続いて2年連続での優勝だった。
その93年、小牧騎手は12月に阪神競馬場で行われていたワールドスーパージョッキーズシリーズにも地方代表として出場。初日のエキストラ騎乗でJRA初勝利を挙げ、さらにシリーズ第2戦でも勝利を挙げ、表彰式で大泣きしたことでも話題となった。
兵庫にも1999年からサラブレッドが導入され、以降、小牧騎手も兵庫所属馬とともに中央に挑戦する機会が増えた。
中央で初めてのオープン勝ちは、同年8月29日、小倉日経オープンをアグネスワールドで勝利。同馬はその年、武豊騎手でフランスのG1アベイユドロンシャン賞を制した。
2001年にはローズバドでフィリーズレビューを制してJRA重賞初勝利。この年はロサードで小倉記念も制した。
その01年にはJRAで20勝、翌02年には21勝をマーク。当時、「近5年、JRAで年間20勝以上2回で、JRAの騎手試験の一次試験免除」という特例があり、小牧騎手にはこれが適用され、二次試験にも合格。04年3月からJRAの騎手となった。
JRA移籍前まで、地方競馬通算3376勝(ほかJRA74勝)、そして移籍後はJRA910勝(ほか地方64勝、4月25日現在)。JRAのGIは、08年に桜花賞をレジネッタで、09年に朝日杯フューチュリティステークスをローズキングダムで制している。
地方騎手としての在籍は、1985年10月から2004年2月まで18年5カ月、JRA騎手としては今年で20年を越え、もはや地方よりもJRAでのキャリアのほうが長くなった。
そんな小牧太騎手が、兵庫に戻ってくるかもしれない。
「かもしれない」というのは、5月11日に実施されるという地方騎手の一次試験(筆記)、さらにその後に行われる二次試験に合格しなければならない。が、果たして。
これまで地方から中央に移籍した騎手は10名いるが、もし合格すれば地方から中央へ、そして地方に復帰、という例は初めてのこととなる。
文/斎藤修